故斎藤守弘師範門下生としてご縁のある方々へ

October 2, 2020

この度、斎藤仁平会長が、会長御尊父である元合気会合気道師範 兼 岩間道場長、故斎藤守弘師範(以後、守弘師範と記す)の威厳をかけて、岩間神信合気修練会の皆様へ通達を発信しました。 岩間神信合気修練会の門下生ではない私ですが、この通達内容には全く同感であり、この通達内容に賛同、支援する武道家の一人として、第3者の立場からの私の意見を共有させていただきます。 まずは、まだ開祖がまだお元気の頃、守弘師範も開祖のお世話をしながら国鉄(現JR)に勤務されていた頃のお話しを交えながら、私の見解を書かせて頂きます。 しかしその前に申し上げたい事があります。 コロナ禍により現在、世界中で多くの人々が、その程度の差こそあれ、色々な苦境の中での生活を余儀なくされています。 現況下においては、合気道家にとっても道場での稽古には大きな制約が生じており、COVID-19への感染防止の為、ソーシャルデステンスを維持することが賢明な対応策の1つであり、そのため、多くの道場において外に出て、杖や木剣などの稽古が中心となってきています。 そういった中でSNS上において、多くの指導者(もしくは自称 指導者)たちが「31杖の形」という「杖の動き」を自ら演武し、録画し、解説を加えた上で公開している例を多々確認できます。ある者は自宅と推察されるダイニングで、ある者は自宅と推察される裏庭からライブ配信すらしています。 これらの発信内容は、実に細部にわたる説明がなされているものあり、感心することもありますが、往々にして大切な事が忘れられています。その大切な事とは、この「31杖の形」はどこから生まれたのか?、という事です。 それは名画の模写や、作詞や作曲家を名乗らない音楽演奏と同じように、「31杖の形」のみを演武しても、それはあくまでもコピー作品の公開をしている行為であり、「31杖の形」などの武芸をパブリックに公開する以上は「武道家の心得」として、その考案制定者に敬意を表し、「一言」その武芸の起源にかかる説明を加えるのが、少なくともパブリックで演武・公開する者の礼儀であり、義務である、と私は考えるのです。 ゴッホの何某という作品、ルノアールの何某という作品, べ―トーベン作曲の何某という作品 、などのアートに限らず、制作者、考案者の権利は、特許や著作権でしっかり守られている事は、皆様もご存知でしょう。しかし、そういった事に配慮する演武者は皆無に等しいのが実情です。 これは決して「31杖の形」にとどまらない現象であり、組杖、組太刀、素振りに至るまで、個々の武芸の名称は唱える事をできても、この稽古形態に至った歴史に深く関与した守弘師範の功績を知る人は、SNS上の演武者の中にはほとんどいない、と考えざるを得ません。。 さらには、居合道や、全く合気道とは無関係の他流派の剣術を、あたかも合気道であるか如く織り交ぜて平然と公共の場であるSNS上にばらまき、コロナ禍による混乱に乗じて、さらなる日本の伝統文化に対する誤解を誘発、誘引している、と言わざるを得ません。 この様な事象はコロナ禍において始まった事ではなく、私はこの様な現状を非常にむなしく思い、腹立たしくも感じていました。 守弘師範門下生としてご縁のある方々は、慧眼をもって真偽を見極める知識、経験を培って頂きたいだけでなく、紆余曲折しながらも過去から綿々と連なる歴史、及び先代である守弘師範と彼の偉業に敬意を表しつつ、過去から続く伝統に重きを置きながら日々の稽古に励んで頂きたいと思う次第です。 さて、少し長くなりますが、、守弘師範門下生としてご縁のある方々、特に指導者には、ぜひとも伝えておきたい、私の若い頃のお話を書かせてもらいます。この逸話は、前述しましたが、まだ開祖がまだお元気の頃、当時、国鉄(現JR)に勤務されながら守弘師範も開祖のお世話をしていた頃の逸話でもあります。 ある朝の開祖のお食事のお席の時でした。開祖はいつもの通り合気神社本殿、天照様、お稲荷様、そして道場内に順々に参拝され、いつもであれば、毎朝の参拝の後は居間に戻られるのですが、なぜかその日はそのまま畑に出て行かれました。 余談ですが、開祖は参拝の時は必ず正装をしておられたので、参拝という行為は、日課とは言え、非常に特別な事でした。ですから、正装のまま畑に行かれる事はあり得ない事だったのです。 その時期は大学の合宿の頃で、学生たちも敷地内に宿泊しておりましたが、開祖の朝のお参りの頃はお邪魔を避けて、ランニングをしに行くのが日課となっており、開祖が朝食の席につかれた頃を見計らって合気神社正面の広場で木剣や杖の稽古を守弘師範の指導で行っていました。 開祖が朝のご参拝を終えられるタイミングの見計らいがいつも非常に難しかったのですが、あの日、参拝を終えた開祖が正装のまま畑に行くなどは全くの予定外の事でした。 菊野さんは(旧姓故山本菊野(故人)。当時の開祖ご夫婦の家政婦であり、稽古もされていたので内弟子ともいえる。)合気神社参拝後は朝食の準備で、私は残りの開祖の参拝で「おそば付き」の役割を担っていました。「おそば付き」とは、開祖の後方で距離を取って待機し呼びかけに素早く対応する役でした。 私は、正装のまま畑に向かった開祖を静かに追いました。 余談になりますが、現在は、当時畑だった場所に大きなツツジがありますが、あれは開祖没後に敷地内の整備の一環として他の場所から移植されたものです。また、当時は道場に近い側の畑には様々な野菜が植えられ、奥の方の畑には落花生などが広く植えられていました。 「なんの御用だろう」と思いつつ開祖を追っていると、開祖がある位置で立ち止まり、木々の間から守弘師範が指導していた学生たちの武器技の稽古をジーっと見つめ始められました。 さて、開祖はその後ご自宅にお戻りになられ、朝食食事のお席の事です。(信じがたいでしょうが、当時は90cmX50cmくらいの飯台(足が折りたためる、座テーブル)に開祖、奥様が座られ、私と菊野もその小さなテーブルで食事をご一緒していたのです。つまり、私のすぐ目の前で開祖が毎日お食事をなさっていました。) ふと開祖がハツ奥様に仰られました。「斎藤、よう稽古しとるわ。」と笑顔で語られたのです。 私は、開祖が発せられたあのお言葉を今でも忘れません。 やがて指導を終えた守弘師範が「お稽古させていただきました。」とあいさつに来られ、開祖が守弘師範に向かってにこやかに頷いていた事もとても印象深く覚えています。(この守弘師範の開祖に対するご挨拶は、必ず行われました。野外稽古の時だけでなく、守弘師範は、道場での稽古の時も同じように「お稽古させていただきます。」、「お稽古させていただきました。」と開祖にあいさつに来られました。) 開祖の晩年は、合気会にとって最も重大な事業が推進されている時期でした。その事業とは、東京の合気会本部道場の新道場ビルの建設でした。多くの道場役員、師範、指導員、そして全国の当時の各県支部長、門下生に至るまで、幾多の関係者の関心は東京の本部道場の建設工事に向かっていました。 その頃、岩間で暮らされていた開祖は、高齢者なら誰も避けて通れない老化による症状が見られるようになっていました。そういった中で守弘師範、そして守弘師範の奥様の献身的な開祖へのお使いにも時には気を遣う必要が出てきました。 それは開祖の個人的な事であり、明確な描写は避けますが、「孤独な老武道家」の残された時間を察していた合気会本部を本拠地としていた者たちは、開祖ご健在なうちに合気会本部新道場の建築工事を終わらせる事に時間を取られ、開祖が岩間で過ごす孤独な時間には余り配慮をしませんでした。 現在では「私は開祖とーー」などと、あたかも特別な時間を持ったような事を発言されている師範がおりますが(ほとんどが亡くなりましたが)、開祖晩年には、岩間を訪れる当時の指導員や師範は殆どおらず、たまに訪ねてきても、守弘師範や菊野さん、或いは私に開祖のご機嫌を尋ね、その回答内容によっては、開祖にご挨拶をせず、合気神社へのお供え物(通常、日本酒とお金の入った玉串)を置いて引き上げるのが通常となっていました。 そういった状況下で開祖の武技の消滅を憂慮し、継承保存の必要性から、開祖の武器技を受け継ぎ、整理されたのは、守弘師範なのです。 例えば現在、皆様、及び数多くの合気道家が稽古している「31杖の形」は、守弘師範が開祖との日々の稽古、あるいは神社内の参拝で開祖が披露された様々な動きを直接受けて、我々が稽古しやすいように編成したものです。 膨大な言語を整理し、説明を付けた上で一冊の辞書が生まれるように、開祖が日々鍛錬された様々な技を理解しやすく整理し、更にはそれらの技を継承・保存することを目的として世界に伝導したのが守弘師範、岩間神信合気修練会の現会長・仁平先生のお父様なのです。 では、なぜ私が上記した内容を断言できるのでしょうか。 それは、1997年に守弘師範に米国・デンバーにお越しいただき、3度目の講習会を開いた時の事を記録してあるからです。 500名に近い参加者があり、大成功に終えた日の夜、私の自宅で慰労の宴を過ごしていた時、お酒も進んだ頃、AIKIニュース編集長の故スタンレー・プラニン氏などとの会話で飛び出した守弘師範のお言葉を私は書き留め、保存しました。ですから、私は前述の事について断言できるのです。 当時の筆記メモをもとに要点だけまとめご紹介しましょう。 「現在本部(合気会)には、誰も開祖の武器技を受け継いだ者はいない。 俺がやらなくては他にやる者がいなかった。 しかし、弟子が師の技をまとめる事など恐れ多くてとてもできなかったが、このままでは受け継ぐことができても、将来に残すことが難しくなると考え、開祖から習い、覚えたことを写真に撮って記録することにした。 一番良いのは開祖の姿を写真に撮ればいいのだが、弟子が開祖にカメラを向け技の写真を撮る、など、とんでもない事だったんだ。 岩間で開祖と撮った写真を自慢げに見せている人もいるが、あんな写真は神社参拝に来た訪問稽古人へのサービスみたいに、開祖のご機嫌の良い時に俺が開祖に取り計らって取らしてもらったんだ。 だから、一番そばにいた者は、開祖との写真は持ってないよ。 だから、開祖の技の動きに忠実に俺が動いて写真を撮ったんだ。 悪気ではなかったけど、当時の開祖の状態を考えればとても「技を記録します」という「無礼極まりないお願い」は出来ず、わざわざ愛宕山などに行ったりして、当時は内緒でやったんだ。 そして、大変な苦労の末、5部作に及ぶ 「合気道 剣・杖・体術の理合 (1974年) 」と名付けられた写真付き解説本が港リサーチから世に出る事になったんだ。 やがて開祖が御入神し、武器技を重視しない体術中心の指導が合気会合気道の主軸として定められたが、すでに世界の多くの合気道家は、稽古着とともに木剣、杖を入れた袋を所持している事が普通となっているほど、俺の武器技は世界中に浸透していたため、当然本部との確執が生じた。 なぜって?  当時、本部から海外に送られた奴ら(後の師範)は、開祖の武器技を稽古していなかったから、「岩間で内弟子をして(それぞれの祖国へ)帰国した者たちは合気道の流れを乱す連中であり、そして、岩間で内弟子をした者達を巡回指導する俺は混乱の筆頭」として、本部は非難し始めた。 しかし、俺には開祖の技、とくに武器技を受け継ぐだけではなく、後世に残すという役目もあると自覚していた。保存するためにはより多くの種を撒き、優秀な者には免状も与えて品質、つまり高い技術レベルで広く浸透させることを望んだんだ。」 あの夜の事を、私は以上の様に記録しています。 守弘師範は、1946年に開祖に入門し、開祖御入神まで23年間、直に稽古を受けたのみならず、日常のお世話を奥様とともに勤め上げ、開祖御入神後は、2002年まで合気神社の管理を同神社の守役として担い、合気会合気道師範9段であり、開祖御入神後から活発に始めた海外でのご指導は、門下生から大きな反響を呼びましたが、その反響と相反するように武器技を指導できない本部系の師範たちから様々な「出来ないがゆえ」の苦情が出されました。なぜなら、武器技を指導できない本部系の師範たちとしては、門下生の求めるものが出来なければ、門下生を失う事であり、自分たちの生活そのものが成り立たなくなるからです。 ( 守弘師範に関するトリュビュートコラムは■開祖に捧げた生涯:故齊藤守弘師範を偲ぶ …

To: All those who regard yourself as a disciple of late Morihiro Saito Shihan,

October 2, 2020

Hitohira Saito Kaicho has recently issued a Notice to the attention of every member of Iwama Shinshin Aiki Shuren Kai to preserve the dignity of the legacy of his father and former Aikikai Aikido Shihan & Iwama Dojo-cho, late Morihiro Saito Shihan (hereafter, ‘Morihiro Shihan’). Although I am not a member of Iwama Shinshin Aiki Shuren Kai, I totally agree …